うつ病と境界例と

「読売新聞 ・ 医療ルネサンス 」の、ここ数日の連載は「境界性人格障害」。この欄では以前にも「うつ病」「統合失調症」なども連載されていました。その流れもあり、新聞が開けるときには読むような習慣が付いています。

自分と「境界例」の関係(?)は、とても近いような遠いような存在です。
うつ病患者として、もう8年ほどを過ごしていますが、何度か「自分は境界例なのではないか」と悩んだことがあります。以前は今ほどうつ病が一般的ではなく、情報はネットで調べることが多かったのですが、調べていると、同時に他の精神疾患の情報にも行き当たります。ですがその時は、「境界例の特徴」が、自分に当てはまっているとは、感じませんでした。



ネットで知り合い、実際にあって遊ぶようになった、うつ病の女友達がいました。彼女は自分よりも年上で、自分よりも研究熱心で情熱的でした。自分たちの趣味はとても似ていて、読んで好きになった本、好きな言葉や好きなシチュエーションなど、「感覚」を共感することが、ものすごく多くて、他人とは思えないほどでした。性格もどこか似ているところがあり、二人とも短気ではありました。

彼女は自分よりも行動力があり、説得力のある言葉を操っていました。それがとても羨ましかった。だけど、約束を破ることが多かったり、有言不実行が何度も続いたり、そんな困ったところもありました。欠点も大きく、魅力も大きい彼女でした。彼女ほど振れ幅は大きくないモノの、彼女の欠点は、自分の欠点と重なっているように思えました。今思うとそれが客観的に正しい見方だったかどうか、よくわかりませんが。その時の自分は「自分はいろいろやりたい、と思うだけで、全然実行できていない(有言不実行)」と思いこんでいたので(うつ病が酷かったので、目標が達成されないことも多かった)。


彼女は「私は境界例っぽいところがある」と、自分自身のことを評していました。たしかに、彼女の性格の激しいところなどは、境界例の特徴と重なることに気づきました。…とすると、彼女の欠点と似ている欠点を持つ自分も、境界例っぽいのかなー?と、考えてみると、当てはまるような当てはまらないような。


出会って、何年か経って、自分は彼女と付き合うのに疲れていました。深く付き合えば吸い込まれそうだったし、かといって距離をとろうとしても、彼女が許してくれませんでした。何度か「絶交宣言」をされました。そして、何度か彼女の方から復縁されました。いつだって、彼女は恐ろしいほど本気で、全力でこちらに向かってきました。

一度ごたごたがあったときに、共通の友人に彼女とのつきあい方を相談したら、「私は彼女とは、損得が発生する約束はしないようにしている(約束を破られても平気なように)」と諭され、それはあまりにも悲しすぎるし自分にも負担だったので、フェードアウトするように彼女から去りました。


結局、彼女が境界例だったのかは、わかりません。分かるのは、やっぱり彼女と自分が似ていること。境界例っぽい特徴を持つ彼女と付き合うのが難しかったように、おそらく境界例と付き合っていくのはとても難しいだろうということ。
自分は境界例かも知れない。自分が境界例だとしたら、それは、彼女とのつきあいの中で自分が感じた苦しみを、自分の周りの人に与えているということで、震えるような恐ろしさです。



医者に「自分は境界例ではないのか」と訊いてみたことはありますが、「違う」といわれただけでした。落ち着いてみると、境界例の特徴というのは、多かれ少なかれ、人々が抱えているものです。ただ、それが生活に支障を来すほど極端だったりするわけだと思います。

うつ病患者は、病気のせいでとてもマイナス思考に偏りがちです。その影響もあって「自分が境界例なのかも」と思ってしまうのではないだろうか、と分析する自分もいます。実際の正解は、よくわかりません。


ただ、いま、分かるのは、「境界例っぽいなあと思っている、自分の欠点」を、どうやったら改められるか、という努力と観察は、自分が境界例でもそうでなくてもすることはできるし、する必要があるということです。すぐ怒ってしまったり、誰かに頼ってしまったり、そういう極端な性格を直すのは、病気かどうかよりももっと重要な「生きやすい自分」を手に入れるために、必要なステップだと思っています。そのために、「境界例の人が心がけていること」をヒントにすることも出来ると思います。


まとまらなかった。
うつ病か、境界例か」ということは、自分の中でグルグルしている。あんまり考え込みたくない。自分一人で考え込んでも答えは出ないから。もうちょっと、建設的な方向に頭を使うように、そう思って心がけている。そんなことを、思い出とともに書いてみた。